子供の頃に感じたあのワクワク感はなんだったのだろう。通学路から外れて街を歩いてみると、そこには見たこともない世界が広がっていて、それはまるで宝探しのようだった。大人になるにつれて忘れかけていた感情を、私はこの企画によって久しぶりに思い出した。

多くの高層ビルが立ち並ぶオフィス街、六本木。

六本木の歴史

案内人を務めるのは黒田涼氏。

作家・江戸歩き案内人神奈川県出身、1985年早稲田大学政経学部卒。
大手新聞社にて記者を16年務めるなど編集関係の仕事に携わったのち、2011年に作家として独立。現代の東京に残る江戸の痕跡を探し出すおもしろさに目覚め、江戸歩き案内人として年間50日ほどガイドツアー講師などの活動を行っている。江戸と言われる範囲をのべ数千キロ歩いて探索。江戸の街の構造、江戸城はもちろん、大名屋敷、寺社、街の変遷、軍用地跡などに詳しい。各種カルチャーセンター講師、NHKはじめテレビ・ラジオ、新聞、雑誌などの媒体露出多数。「江戸城天守を再建する会」会員。

黒田さんによると、六本木が高級な歓楽街として栄えたことには理由があるという。まずは六本木という街の歴史をおさらいしよう。

「六本木」という地名の由来は不明ですが、江戸時代ごろに成立した新しい地名のようです。長州毛利本家があった赤坂の隣ということで、大名屋敷が多くある中に寺院が点在する地域です。明治維新後は、大名屋敷跡地を利用し、赤坂に近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、六本木に歩兵第三連隊が駐屯するなど軍の街となり、軍人相手の商売で繁盛しました。敗戦後もこれら駐屯地に米軍が駐留し、またアメリカ大使館があるなどアメリカを中心に外国人の居住・滞在が多く、海外からの最新情報が入る街となりました。そのため高級レストランなどが集まり、さらに歓楽街として栄えるようになりました。バブル崩壊後は社用族などの利用は減り、アークヒルズ、東京ミッドタウン、六本木ヒルズなどの再開発が進んで、高級ショッピングタウンとなり、最近では高層マンションが多数建ってきています。

江戸時代には大名屋敷が点在し、明治時代には軍の街となった六本木。六本木と聞いて思い浮かべる「高級」「外国人」と言ったイメージの源泉はここから来ているものなのだろう。

六本木歴史散策ルート

今回はそういった歴史から芽吹いた街の情緒を感じるべく大名屋敷や軍にまつわるスポットを巡っていく。六本木一丁目駅から赤坂方面に歩き始め、東京ミッドタウン、国立新美術館、六本木ヒルズを経由して六本木駅を終着点とするルートだ。

勝海舟と坂本龍馬

さっそく黒田さんに頂いたマップを頼りに六本木一丁目駅から赤坂の方に向かって歩き始める。

地下道を使って、頭上を首都高環状線が通る大通りの反対側に出た。ローソンを目印に右折し、アークヒルズから赤坂駅に向かって伸びる真っ直ぐな坂を歩く。

少し歩くと、周りを取り囲んでいた高層ビルが小さなビルやマンションに変わり、次第に空が開けてきた。ひたすら道なりに進んで行くと、交差点に銅像が現れた。

この銅像、いったい何者だろう。

銅像の下に刻まれた文字を見て、この二人は幕末の偉人坂本龍馬と勝海舟だと判明した。

銅像が置かれているのは港区赤坂子ども中高生プラザ。なぜこの場所に銅像が建てられたのだろう。近くにあった石碑を見てみると「勝安房邸阯」と刻まれている。

石碑の横にある案内板を読むと、ある事実がわかった。この地は勝海舟が49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地だったのだ。

勝は静岡から東京に戻ってきた1872年から1899年に亡くなるまでここで暮らしました。勝安芳とは明治以降勝安房(あわ)から改めて名乗った名です。自身で「あほう」だと吹聴していたといいます。

師弟関係にあったという二人。大河ドラマで勝海舟がつくった海軍学校で坂本龍馬が学んでいるシーンがあったことを思い出した。

緑に囲まれた赤坂氷川

次の目的地である氷川神社に向かって歩いていくと徐々に自然の匂いが感じられるようになってくる。

ところで、あなたは「氷川神社」という名前に聞き覚えはないだろうか。実は総本社である大宮氷川神社を中心に東京、埼玉、神奈川に280以上の氷川神社があるのだ。これから向かう氷川神社は「赤坂氷川」と呼ばれている氷川神社。

青々とした綺麗な苔が地面を覆い、立派な木々がそよ風に揺れている。赤坂氷川は自分が今港区を歩いているということを忘れさせてくれる。

境内では腰を休め悠久の時に身を委ねる老夫婦の姿。目を閉じて手を合わせるとここがどこだか分からなくなってくる。

1000年ほど前の創建とされています。元々は赤坂4丁目あたりにあり、紀州徳川家上屋敷の産土神として敬われていました。この紀州家出身の吉宗が将軍になると、社殿を移転し立派にしたそうです。また氷川神社が移転する前は、浅野内匠頭の妻の実家だったと言われています。ちなみに境内にある四合(しあわせ)稲荷は勝の命名だと言われています。

階段を下ると勝が命名したと言われる四合稲荷が見えた。4社の稲荷神社を合祀したことを意味する「四合」と「幸せ」をかけた勝海舟。粋なネーミングだ。

静かで緑に囲まれた赤坂氷川は六本木赤坂近辺で働く人が気分転換するのにもオススメのスポットだ。仕事に疲れたときは少し散歩してみてほしい。

赤坂氷川から数分歩くと、また勝海舟にまつわるスポットがある。先ほどの銅像があった場所は静岡から東京に戻って来た後に暮らした家であったが、こちらは静岡に行く前の家があった場所だ。

勝が徳川慶喜に従って静岡に退去するまで、1859年から1868年までここに住んだ住居跡です。マンションの壁に解説板があります。勝によると、この家に坂本龍馬が自分を暗殺しに来たといいます。たぶんホラでしょう。

かつては中屋敷だったミッドタウン

ミッドタウンに向かって歩いて行くと足元に緑が広がる大きな公園が見えてきた。ミッドタウン裏にある憩いの場、檜町公園だ。

檜町公園があった場所は、江戸時代には200年にわたって萩藩毛利家中屋敷があった。萩藩毛利家中屋敷は檜が多いことから「檜屋敷」という異名を持っていた。その名残でこの付近は檜町と名付けられたという。また、毛利家中屋敷の庭園には江戸の名園として名高い「清水園」もあった。

今は芝生の綺麗な公園に変わり、滑り台やブランコなどの遊具も設置されるようになった。また、公園内には日本庭園も造られた。

ミッドタウンの敷地は、江戸時代は萩藩毛利家中屋敷でした。幕末に長州が幕府の追討を受けることになると、屋敷の藩士は捕らえられ、屋敷にある金目のものは幕府に没収され、屋敷も解体されて風呂屋の薪にされました。現在、毛利家時代の遺構はほとんどないですが、檜町公園内の東屋にかつての様子が詳細に記されています。

池の周りにはベンチがあり、腰掛けて庭園を眺めることができる。四季折々の景色が楽しめそうだ。

池の周りを歩いて行くと公園の隅に一つの石碑が見つかった。石碑には「歩一の跡」の文字が刻まれている。

毛利家屋敷跡は明治時代になると軍用地となったと先ほど学んだ。ここは「歩一」、すなわち陸軍第一師団歩兵第一連隊の駐屯地だった場所だ。

敗戦後、この土地は米軍に接収され、返還後は防衛庁が建設されました。当時は戦前の兵舎が残っていましたが、ミッドタウン建設の際に壊されました。

緑溢れる穏やかな公園から、ここに兵舎があったとは想像し難い。この石碑がなくなってしまえば、公園内には軍の痕跡が全くなくなってしまうだろう。

ミッドタウンを通り過ぎ、さらに公園を歩いて行く。

向かって右側の公園の脇道に降りると石垣が現れた。一見ただの石垣に見えるが、よく観察して見るとそれぞれの石の大きさや形はまばらだ。

この石垣、実は毛利家邸の石垣を復元したものなのだ。案内板などは特にないので、歩いていても気づかない人が多いだろう。少し探しづらいが頑張って探してみよう。

東京ミッドタウン西交差点を直進し、国立新美術館方面に向かう。直進して行くと左側に段差があることに気づいた。

実はこの段差、江戸時代に道と上屋敷を隔てていた石垣なのだ。

江戸時代は石垣の下が道でした。この石垣は道の上側にあった鍋島家の分家、肥前蓮池藩の上屋敷のものです。

現在、石垣を挟んだ上側は道路になっており、車が走っている。

国立新美術館敷地に残る軍の跡

まっすぐ歩いて行くと国立新美術館が見えてきた。国立新美術館は20071月に開館した国内最大級の美術館だ。江戸時代、この土地は宇和島藩伊達家の上屋敷だったという。

国立新美術館や政策研究大学院大学、日本学術会議の敷地は、江戸時代は宇和島藩伊達家の上屋敷でした。幕末四賢侯の一人、伊達宗城(だてむねなり)の家です。

明治維新後は軍用地となり、歩兵第三連隊が駐屯しました。関東大震災後に、鉄筋コンクリート3階建ての巨大兵舎が造られ、代表的な復興建築の一つでした。また二・二六事件の主力部隊はここから出撃しています。戦後も建物は残り、米軍接収後、東京大学生産技術研究所として長く使われましたが、耐震性に問題があるとして壊され、国立新美術館となりました。しかし多くの保存運動があったため、建物の一部が切り取られて残されています。

敷地内を奥に歩いて行くと軍用地としての名残である歩兵第3連隊兵舎が見つかった。

これは兵舎のほんの一部であり、元々は国立新美術館と政策研究大学院大学の土地にも兵舎があった。

23区内唯一の米軍基地

突然だが、23区内に米軍基地があるということをご存知だろうか。次の目的地は通称ハーディ・バラックスと呼ばれる米軍基地だ。

星条旗通りには「U.S. Army Area在日米陸軍地域」と書かれた標識が吊るされたフェンスが続いている。

ゲートは閉められているが、外からでも「HARDY BARACKS」の文字が見える。米軍基地の周りでは外国人をよく見かけた。

歩兵第一連隊と第三連隊の駐屯地は敗戦後米軍に接収され、ハーディ・バラックスという米軍基地になりました。順次土地は返還され、第一連隊の土地は全部、第三連隊も大部分が返還されているものの、いまだに米軍基地の場所があります。正式には赤坂プレスセンターといいますが、ヘリポートと星条旗新聞社(事実上の米軍機関紙)があり、返還の見込みはありません。さらに六本木トンネルを建設する際に一時移動したヘリポート敷地を米軍は不法占拠したまま返還せず、日本政府も追認してしまいました。

先ほど歩いてきた歩兵第一連隊、第三連隊の駐屯地が全て米軍基地だったというのは驚きだ。

ニッカの工場があった六本木ヒルズ

通りを歩いて六本木ヒルズ方面に向かう。テレビ朝日の大きなオフィスが見えてきた。

テレビ朝日の建物の下には庭園があり、散歩コースとなっている。この庭園は毛利庭園と呼ばれている。普段は気にかけたこともなかったが、この散歩で何度かでてきた「毛利」というワードがここでも登場した。

そう、ここ六本木ヒルズの土地はかつて毛利家の分家である長府藩毛利家の上屋敷だったのだ。

ここでは四家に分かれてお預けになった赤穂浪士、10人が切腹しました。乃木将軍の父はこの家の家臣だったので、幕末にここで産まれています。明治維新後は曹洞宗大学林(駒澤大学の前身)、法律家の邸宅、真田家の邸宅などがありました。敗戦後は「マッサン」で話題のニッカが工場を造り、1967年まで操業しました。ここにあった池や地下水を使いボトリングをしていたため、池はニッカ池と呼ばれていました。その後真田家敷地を入手したテレビ朝日が工場跡地を購入。池は美しい庭園として保存されていましたが、ヒルズ建設に伴い埋められました。竹鶴政孝氏は「池をつぶした奴にはたたりがある」と話していたといいます。

この池は埋め立ててから新たにつくられたものだ。

ニッカ池のほとりには、乃木将軍生誕地の記念碑、産湯の井戸、辻占い売りの少年と乃木将軍の像などがありましたがいずれも撤去され、記念碑はヒルズ敷地内の公園の隅に移されました。少年と将軍の像は乃木邸跡にあります。

乃木将軍(乃木希典)は日露戦争の旅順攻囲戦で指揮をとった軍人として有名だ。乃木将軍生誕地の記念碑はビルを挟んださくら坂公園にあるということで、早速公園に向かった。

公園には大きな滑り台が設置され、たくさんの子供が走り回っていた。

階段を上がると公園の隅に乃木将軍生誕地の記念碑がポツンと置かれていた。

碑には「乃木将軍生誕地」と刻まれているものの、移設され生誕の地ではなくなってしまっている。

港区七福神の一つである櫻田神社

最後の目的地である櫻田神社に向かう。建物と建物の隙間に鳥居が見えた。

名前の通り、以前は江戸城に近い桜田村にあり太田道灌が移転させたと言われています。昔は霞山稲荷と称し、付近の地名も桜田町、霞町でした。港区七福神の一つです。

この神社は新撰組一番隊組長の沖田総司がお宮参りしたことで、沖田総司のゆかりの地としても知られている。

参道に夕日が当たり、神々しい。

六本木の様々な顔を見せてもらったことに感謝し、参拝した。

今回の散策はこれにて終了。大名屋敷跡と軍にまつわるスポットを一気に回った。時間は少しの休憩を含め約4時間程度だ。

いつもとは違う視点で街を歩くことができる東京散策。今は様変わりしていても、あれやこれやと想像を巡らせて昔に思いを馳せるのは面白い。

みなさんも、休日は是非まだ見たことがない、感じたことがない東京を探しに街を歩いてみよう。

 

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