特集「挑戦前夜」

卒業や就職を迎えるこの季節。新たな「挑戦」をしてみたいと考えている人も多いはずです。

この特集では、様々なジャンルのトップランナーに、その後進んでいく道を決定づけることになったきっかけ・決心について伺い、各人の挑戦前夜の様子を描き出します。

第一回 〜DJ・須永辰緒

第二回 〜AV男優・田淵正浩

第三回 〜プロブロガー・八木仁平

1996年からヴィジュアル系ロックを専門としたラジオ番組を担当するラジオDJ・浅井博章。1997年からはヴィジュアル系専門DJイベント・爆発寸前NIGHT(以下、爆寸)も主宰しはじめ、現在でも定期的に開催している。日本の“ヴィジュアル系”という特殊な音楽ジャンルを専門とした前人未到のラジオ番組とDJイベントはいかにして誕生し、現在まで続いているのか。そこには手にしたチャンスを掴み、決して離さない浅井の姿があった。

浅井博章

浅井博章

ラジオDJ。1996年からヴィジュアル系を扱う番組を担当し、現在はFM802の【REDNIQS】とNACK5の【BEAT SHUFFLE】をレギュラーで担当。ベテランから若手インディーズまで、幅広いヴィジュアル系アーティストの音楽に精通。97年から定期的に開催されているDJイベント【爆発寸前NIGHT(通称爆寸)】の企画・運営を行っている。数多くのライブイベントでMC・DJとして出演しているほか、インタビュアー・ナレーターとしても活動。関わってきたアーティストの数は1000を超える。また、自身も覆面バンド【Cemetery Cemetery】にヴォーカリストとして在籍。

ラジオDJそのものには興味がなかった。

ヴィジュアル系は2017年現在においても極めて特殊なジャンルである。メンバーの出で立ちや曲調、ファンのライブの楽しみ方に至るまで、独特の文化が培われてきている。浅井博章はその独特な文化の渦潮に、数々の偶然が重なって巻き込まれていくことになる。

「音楽は人並みに聴いてはいたけど、特別詳しかったり、他の人に比べて興味を持っていたということはなかったです。ずっとライブにも行ったことなかったし。学生時代に家でX(X JAPAN)のCDを聴いたりコピーしたりするだけでした。」

音楽に強いこだわりはなく、X(X JAPAN)以外にもJ POPや洋楽など幅広く聴いていたという浅井少年。そんな浅井を音楽の道へ導いたのは大学のサークル活動であった。元々マスコミ関係の仕事を志望していた浅井は早稲田大学に進学。そこで目についたのが早稲田大学の「DJ研究会」だった。

「当時DJそのものには興味がなかったんだけど、新歓で先輩から『マスコミ関係のテレビ局や雑誌社のアルバイトを紹介するよ』と言われて入ってみました。たまたまそのサークルがDJサークルだったので、言われるがままにDJをやってみたらこれは面白いぞと。天職だと思いました。」

DJ研究会の活動は、仲間内で集まって曲をかけながら喋るというスタイルが基本だ。しかし、その活動はサークル内だけにとどまらず、ときには街中のDJブースに出向くこともあった。当時は街中のいたる所にDJブースが点在しており、例えばCDショップHMVの店舗にもDJが常駐していた。店内でDJがオススメのCDをかけながら巧みなトークで楽曲を紹介するのだ。浅井はその姿を見て、HMVでDJをしたいと思うようになる。

「まずは人前でDJをする経験を積まないといけないなと。それで、早速原宿のラフォーレ1FにあったDJブースの窓を叩きました。すると『じゃあ入ってこい』『DJやってみな』と言われたので、その場にあるCDでDJをやりました。おおらかな時代ですよね(笑) その結果、巡り巡って当時新しくオープンしたばかりのHMV池袋店から連絡を頂くことになりました。DJをやらせてもらえることになったんです。」

「DJ」と言っても様々な種類があるが、浅井が取り組んでいたのは音楽をかけながらその間をトークで繋ぐタイプのDJだ。そこでは客を躍らせるのではなく、トークで人を楽しませたり、トークで楽曲の魅力を伝える必要がある。知識や技術ももちろん、体力も要る。 当時まだ10代の浅井は不慣れながらも毎週4時間、休まずDJを行った。体調のいい日も悪い日もひたすらしゃべり続けることで、徐々に人前で話すことにも慣れ、さまざまな音楽、特に洋楽に詳しくなっていった。かなりの知識を吸収したその1年間は、浅井にとって重要な1年となった。

「1年が過ぎて、夏ぐらいにラジオのオーディションを受けたのかな。たまたま大阪の放送局でラジオDJを募集しているって話を聞いて。まあとにかく当時は音楽をかけて、喋る場に飢えていたので、オーディションとか募集を見たらなんでも応募していました。失うものは何もないので、受けてみるにこしたことはないと思っていたんです。まず大阪にFM802っていう放送局があるらしいと知って、受けてみたのが大学3年生の夏だったと思います。」

HMV池袋店での修行を終えた浅井は、東京の大学に在学しているにも関わらず大阪にある放送局のオーディションを受けた。そして、浅井は見事にオーディションを通過。ここで新たなチャンスを掴むことになる。 周りの仲間達が就職活動の準備に取りかかる中、単身大阪へ出向いた浅井。そこに迷いや不安はなかったのだろうか。

「オーディションに受かって、4年生の春には大学に籍を置いたまま大阪へ引っ越すことになりました。これでいいんだろうかっていう思いはすごくあったし、周りの仲間を見て色々不安になりながら大阪でのラジオDJ生活をスタートさせました。しかも大阪には知り合いが1人もいないという状況です。なので、家と職場をひたすら往復する毎日・・・。そういう意味では孤独な日々でしたよ。」

東京の仲間達が勉学に励み就職活動を始める中、浅井は1人ラジオに人生を賭けた。しかし大学は中退せず、ラジオに精を出しつつも、2週に1度は東京へ戻り授業を受けていたという大学5年目。あまりに多忙なその1年だったが、卒業をかけて学生生活で1番真面目に勉強した年だったと語る。

「お化粧系を担当しろ。きっと1年そこらで終わるから。」

浅井がはじめに任された番組は、新人のラジオDJが必ず担当することとなる深夜の生放送。その番組はジャンルを限定せず、さまざまな音楽をかける番組であり、そこに何度かLUNA SEAのRYUICHIをゲストに迎えることがあったという。この出会いが、浅井を数奇な運命へと誘う。

「RYUICHIさんはすごくいい人で、僕は当時ヴィジュアル系をよく知らなかったんですけど仲良くして頂いてました。でも、僕はその番組を降りることになってしまったんですね。」

ラジオDJの世界は厳しい。新人の登竜門とも言える番組を担当した浅井だが、この後に任される新番組がラジオの世界で生き残るためのラストチャンスだという。自身の命運を賭けた新番組でどんなジャンルを扱うべきか、頭を悩ませた。

「新しく番組を任せてもらえることになったは良いものの、それが上手くいかなかったらクビだと。テーマ案は色々あったんですが、その候補の1つがヴィジュアル系でした。当時はヴィジュアル系じゃなくてお化粧系とか言われてましたけど。スタッフから『君はLUNA SEAと仲ええんやから、お化粧系やったらええんちゃう』って言われて。僕は正直『え!?』と思いましたね。当時LUNA SEA以外は全然知らなくて、L’Arc-en-Cielのボーカルは女だと思っていましたから(笑) 僕にそんなことできるのかなっていう不安は当然ありましたけど、当時のプロデューサーから言われたある一言に突き動かされました。」

不安を感じていた浅井に、当時のプロデューサーは「夜中の3時からお化粧系やったって、そんなんどうせ1年そこらで終わる番組やねんから。」と言い放った。その瞬間、ラジオDJ・浅井博章の闘志に火がついた。

「もうめちゃくちゃ悔しくて、絶対1年そこらで終わらせられない番組にしてやるって思ったんです。まずはシーンを理解し、ヴィジュアル系を愛するファンたちにも認められる存在にならなきゃいけない。そのために最初の1年はバンド名と曲を頭に叩き込むのに必死。最初にやったことと言えば、レポート用紙に各バンドとメンバーの名前を書いて張り出すということでしたね。今みたいにインターネットがないので各アーティストのバイオグラフィとかプロフィールは切り取ってファイリングして、常に持ち歩いていました。」

ヴィジュアル系バンドにはバンド名やメンバーの名前が読みづらいものも多い。そのため浅井は当時アナログな方法で必死にヴィジュアル系の知識を頭に叩き込んだのだった。しかし、ラジオでバンドの魅力を伝えるためには、知識だけでなくライブ会場の熱狂を肌で感じることも必要である。浅井はあらゆるライブ会場へ足を運び続けた。

「ライブにはほぼ毎日、行けるものは全て行ったかなという感じでしたね。本当に毎日のように行ってましたよ。やっぱりライブに行くとアーティストが僕のこと覚えてくれるんです。終わったら挨拶をするので、『大阪でライブをやったらあの人が来てくれるぞ』という感じで。それでアーティストとも関係を作っていきました。もちろんライブに行くことによって日頃レコード会社からもらうサンプル資料だけでは知り得ないことにも触れられるのでメリットも大きかったです。例えば、ライブ特有のキラーチューンやメンバーのキャラクター、ファンの傾向とか、それぞれのアーティストの個性は現場に足を運ぶことでしか知り得なかったと思います。」

アーティストの魅力を知るためとは言え、なにせ時代はヴィジュアル系戦国時代。ラジオが始まった当時はGLAY、L’Arc-en-Ciel、黒夢が爆発的なヒットを記録し、SHAZNAやMALICE MIZER、La’cryma Christiなどがその後を追っていた。右も左もわからない状態で、毎晩熱狂の渦巻くライブ会場へ足を運ぶということは並大抵のことではない。

「たまたま憎きプロデューサーにお化粧系やれって言われて泣く泣く引き受けて。結果オーライ。運とタイミングが良かったんです。」

笑いながらそう語る浅井だが、当時前例のないヴィジュアル系専門番組を担当することになった裏には相当の覚悟と葛藤があったはずだ。その葛藤を乗り越え、ヴィジュアル系という特殊な文化と真摯に向き合ってきたからこそ、今でも変わらず第一線で活躍できているのだろう。

三大人気バンドがライブをしなかった1997年、爆寸は誕生した

「こないだサロンにも書きましたけど、1997年という年は、当時1番人気があったX JAPANとLUNA SEA、L’Arc-en-Cielが3組ともライブ活動をしていない年なんです。僕のラジオ番組が始まってから数ヶ月でそういうことになって。そこで、ファンの子たちがカラオケボックスで大きい音をかけてヘドバンしてライブで暴れたい欲求を発散しているという話を聞いたんです。そんなことになっているのなら、僕がみんなの暴れられる場所をつくってあげようじゃないかと考えたのが爆寸を始めたきっかけです。」

1996年の後半から3バンドの活動は徐々に減ってくる。X JAPANは1996年11月にアルバム「DAHLIA」をリリースするも、翌年の秋には解散を発表。また、LUNA SEAは1996年にアルバム「STYLE」のリリース後ツアーを行うが、同年12月より充電期間に入る。そしてL’Arc-en-Cielは1997年2月、新たなオリジナル作品の創作のため充電期間に入った。このように1997年は餓えたバンギャルが世に蔓延る年であった。 そんな悲しみのひしめき合う年にバンギャルに暴れることのできる場所を提供したいという想いで始まった爆寸。バンギャルの悲しみを背負った爆寸には、誕生当初から変わらないこだわりがあった。

「爆寸は普通のクラブイベントとは根本的に違うものです。僕にとっては当たり前のことなんですけど、お客さんには始めから最後までいてほしいわけですよ。普通のクラブイベントは途中で来て途中で帰ったりということがあると思うんですけど、僕のイベントの場合はそういうことがほぼない。みんなライブと同じように楽しむんです。」

これが通常のクラブイベントであれば、曲がかかってる合間にお酒を飲んだり、ご飯を食べたりすることもあるだろう。途中でフロアを離れて休息を取る人もいる。しかし、これがアーティストのライブであれば暫く席を離れるなどということはあり得ないだろう。

「僕のイベントでは『最初も最後もライブと同じように盛り上げたい』というこだわりがあるんです。特に終盤は有名な激しい曲を続けて、ピークを最後に持ってくるようなライブと同じ流れにしたいんです。そういうことは常に考えてますね。そこは独自のこだわりだと思います。」

浅井のこだわりが通じてか爆寸にやってくる来場者の多くはライブと同じ服装をしている。いわゆる軽装で、腰にはペットボトル。好きな曲がかかり次第最前付近で暴れまくる。時には浅井も客の方へダイブしたりモッシュにまじったりしている。このスタイルこそ浅井が20年間守り続けてきたものであった。

「ちなみに選曲の方は、色んなアーティストの曲をかける場合、お客さんからリクエストを募るやり方をしています。どのバンドのお客さんが来てるかって毎回違うから、事前に把握できた方がより多くの人を楽しませられるなと思って。」

なるべくたくさんの人に楽しんでもらいたいという思いに忠実なやり方を追求し続けているのも爆寸の特徴かもしれない。しかし、そんなお客さんの好みを反映するリクエストも爆寸初期は上手く取ることができなかった。

「爆寸を始めた初期はインターネットがなかったんですよ。まあ厳密に言うとあることにはあったんですけど、少なくともお客さん全員に何かを伝える手段としてインターネットとか電子メールはまだ使えなかった。そんな中、お客さんの事前リクエストなんかもちろん受け付けられないから、毎回爆寸で配るアンケートを回収して、そこに書いてあるものを集計、それを次回に活かすというやり方でした。そしてそのとき来てくれた人の住所にまた何月何日に爆寸をやりますというDMを送るという・・・。そういう手段しかなくて宣伝の方法とかお客さんとのコミュニケーションがものすごく大変でした。」

それでも20年間来場者が途絶えず、ここまでバンギャルに愛されるイベントに成長できた裏には、浅井という人間の個性があった。 例えば、浅井の趣向を凝らした1度限りの”企画モノ爆寸”も多くの人を虜にしている。以前開催された「コスプレ限定爆寸」では、お客さんはもちろん浅井もタキシードでDJを行った。爆寸には、このようにお客さんを楽しませたいという想いの伝わってくる企画が多数ある。今年は爆寸にとって20周年という記念すべき年であるが、浅井に何か企みはあるのだろうか。

「例えば20年バンドを続けていると、20年分音源があるわけです。だから、今からベテランバンドのファンになろうと思ったら、『どこから聴けばいいの?』となると思うんです。そして『どれだけ聴いても知らない曲がある』『いつまで経っても本当のファンにはなれない』というような疎外感を感じてしまうから、どうしても若い子は若いバンドのファンになるという傾向があったりします。そういう人たちにとっての入門イベントになるものもできたらいいなぁと考えています。」

浅井がヴィジュアル系と共に積み重ねてきた歴史を、誰もが楽しめる形で噛み砕いて伝えていく。そして、それを通じて年代を問わずに盛り上がれるイベントをやっていきたいという。周年企画というと、どうしてもコアファンに向けた感謝を形にするものが多いイメージだが、浅井の目はまだ見ぬ新しいファンたちを見つめていた。

「当たり前ですけど、爆寸はバンドとは異なります。常にその時代のニーズに合わせた内容をやっているイベントなので、まだ爆寸に来たことがなく、音楽イベントの楽しさを知らない人でも楽しめると思っています。普段こういったイベントに参加しないというバンギャルにとって爆寸は割と敷居が低いというか、入りやすい空間を意識していますし。なのでこれからもそういうイベントであり続けられるように色々工夫しつつ、20周年であるということを必要以上にアピールしなくても良いのかな、と思っています。」

ところでラジオ番組というのは、アーティストにとってしばしば新たなファン層を開拓するためのプロモートの場となる。また、そうであるならばラジオパーソナリティやラジオDJの役割とは、選曲やトークなどさまざまな武器を使って、世間にアーティストや楽曲の良さを伝えることになるだろう。この職業を「天職だ」と言う浅井の性格が、ここにもよく現れている。

一勝四敗でも、その一勝を大事にすれば良い

20年間に渡り、ヴィジュアル系シーンと真摯に向き合い続けてきた。ここまでファンに愛されるコンテンツをつくりあげた浅井は、控えめに言っても「成功者」と呼んで間違いないだろう。浅井の活動を支え続けたモチベーションの源泉はどこにあったのだろうか。

「僕の場合はここまで運もよかったから。上手くいくことも色々ありましたが、当然上手くいかなかったこともいっぱいありますよ。苦い経験なのであまり語りたくもないようなね。それでも今がある。そう考えたら、何事もなるようになるというか。一勝四敗でもその一勝を大事にしていればいいんです。あまり失敗を恐れずに色々チャレンジしてみて、手応えのあったもの、上手く行くと確信できたものを頑張ってみるのが1番いいと思います。」

インタビュー中に幾度も「運」という単語を使って謙遜し続ける浅井。しかし浅井の今があるのは決して運に任せた結果などではない。一勝を掴み、離さず握りしめてきた結果である。これからも浅井博章は、その右手に掴んだラジオと左手に掴んだ爆寸という一勝を大切に握り続けていくだろう。

浅井博章のヴィジュアル系集会
浅井博章のヴィジュアル系集会
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