特集「挑戦前夜」

卒業や就職を迎えるこの季節。新たな「挑戦」をしてみたいと考えている人も多いはずです。
この特集では、様々なジャンルのトップランナーに、その後進んでいく道を決定づけることになったきっかけ・決心について伺い、各人の挑戦前夜の様子を描き出します。

第一回 〜DJ・須永辰緒

第二回 〜AV男優・田淵正浩

第三回 〜プロブロガー・八木仁平

第四回 〜ラジオDJ・浅井博章

第五回 ~作家・猪瀬直樹

今や日本を代表する美容室の一つとなった「AFLOAT JAPAN(アフロートジャパン)」の代表を務める男、西岡卓志。現役のスタイリストとして17年間にわたり店舗に立ち続ける傍ら、美容事業者向けのオンラインサロン「GENECTION(ジェネクション)」をスタートするなど、会社の枠に止まらず各方面で活躍を続ける。

日本を代表するブランド美容室に籍を置きながら、なぜ、西岡は挑戦を続けるのか。今回はその裏にある行動原理を紐解いていく。

西岡卓志 

1978年、兵庫県出身。2000年、宮村浩気が立ち上げたアフロート第一号店にオープニングスタッフとして入社。以後17年にわたりスタイリストとして第一線で活躍。2012年~「AFLOAT JAPAN(アフロート ジャパン)」代表、2014年~ヘアサロン「ROULAND(ローラン)」代表を兼任。「全ての女性を美しく」をモットーに各方面で活躍を続ける。

AFLOATと西岡卓志

カルティエ、シャネル、ルイヴィトン、海外の有名ラグジュアリーブランドが軒を連ねる銀座マロニエ通りの一角に、銀座の街が一望できるオフィスと商業施設が一体となったビルがある。その10階に「AFLOAT JAPAN」は店を構え、そこには併設されたネイルサロンのスタッフも含め約40名が勤務している。西岡は2012年、ヘアサロンのオープンと同時に代表に就任し、以来人気ヘアサロンの”顔”として、数々の著名人やモデルのスタイリングを手がけてきた。

「AFLOAT」は、2000年代初頭、空前の美容師ブームの先陣をきり”カリスマ”と呼ばれた男、宮村浩気が独立・開業し、以来ブランド美容室の草分けとして美容業界を牽引してきた。2017年現在は、都内に直営店を6店舗、国内外にFC店19店舗を展開する一大グループとなっている。

2000年に「AFLOAT」のオープニングスタッフとして入社した西岡は、会社の成長とともに美容師としてのキャリアを積み上げて現在に至っている。しかし、西岡は昔から美容師を志望していたわけではなかったという。

「とにかく島から出たかった」抑圧された少年時代

西岡は1978年、兵庫県・淡路島に生まれた。祖父母は農家、両親は公務員という家庭の長男として生まれ、幼いころより「公務員になって、実家の農家を継いでほしい」という親の期待を一心に受けて育てられた。とりわけ役場の内情をよく知る父親からは、消防士になることを強く薦められていた。

勉強も良くできた。高校から進学校に通い、いわゆる優等生タイプだった西岡は、両親の期待どおりに自然と公務員を目指すようになった。ところが1995年1月、当時高校二年生だった西岡に大きな転機が訪れる。阪神・淡路大震災だった。

「とにかく地震がすごすぎて、そのときは本気で死ぬと思いました。それをきかっけに将来についてもいろいろと考えるようになった気がします。このまま大学に進学して、地元でお嫁さん貰って、ここで一生この島で終えるのか。そう考えると底知れぬ不安がありました。それから特に何が嫌というわけでもなく、とにかく抑圧から逃れるために、島を出たいと強く思うようになったんです。」

そんな西岡を導いたのは、当時交際していた一つ年上の彼女だったという。

「そもそも中学3年生までは丸坊主でした。僕はバレー部でしたが、部活関係なく男子は全員丸坊主。高校生になって髪を伸ばせるようになって、はじめて美容室に通えるようになったのですが、どうしてもファッション誌で見たような髪型にならないんですよ。そんな時に当時つきあっていた彼女が大阪の美容師専門学校に進学することになって、はじめてそんな道があるのだということを知りました。当時は特別美容師になりたいと思っていたわけでは無いのですが、とにかく島を出るという希望を叶えられそうだし、手に職をつけるということに安心感もあったので。仮に将来実家を継ぐことになったとしても、地元で開業できるかもしれないなという計算もありました。」

農家の長男ということもあり親族の反対は強かったが、結局西岡は、彼女のあとを追うようにして大阪の美容専門学校への進学を決めた。

就職活動での苦戦

専門学校では大多数の同級生と同じく大阪で就職先をさがすことになる。しかし、これまで何事も要領良くこなしてきたはずの西岡は、そこで思わぬ苦戦を強いられることになる。片っ端から応募したサロンの内定を一つも得られないまま連戦連敗を重ねてしまうのだ。焦った西岡は年末も差し迫った12月、上京を決意する。

「そのとき、正直大阪はもうだめなんじゃないかと思いました。今の妻が、当時同級生だったのですが、彼女は東京のサロンに就職が決まっていて、それがたまたま当時有名美容師だった宮村浩気さんのいたHAIR DIMENSION(ヘア ディメンション)だったんですよ。当時東京は人材不足で、東京の有名サロンに就職が決まっていた同級生が他にもいました。そこで僕も東京のサロンを受けようと思って。12月くらいだったの思うのですが、そもそも東京にしか、そんな時期まで募集を続けているところがなかったんですよ(笑)。」

その頃、美容業界は大きな転換期を迎えていた。もともと地域密着型の個人経営店、いわゆる『地方型サロン』が大多数を占めていた時代において、美容室はいかにして地域のニーズに沿ったサービスを提供するかということが求められた。対して特定の年齢層や消費者の動向を意識したブランディングに取りくむ店舗、いわゆる『都市型サロン』が勃興し、その後急速に広まっていった。2000年代初頭には、カリスマ美容師ブームと呼ばれ、その年の高校生のなりたい職業第一位に美容師が輝くなど社会現象を巻き起こしたのは、まさしくそういったサロンのブランド化に取りくむ美容師たちだった。

「あれだけ大阪でダメダメだったのに、不思議と東京では、応募したサロンにはほぼ合格しました。いま考えてみれば単に人手が足りなかっただけだと思いますが、その当時は大阪で内定をもらえなかった反動もあって”俺は東京の水が合っている”と勘違いしちゃってました。」

奇しくも西岡が就職活動をした90年代の後半は、美容師ブームが巻き起こる前夜。東京では、その予兆を感じながら、野心あふれる若手の美容師たちがひしめいていた。そんな中、東京で内定を得た西岡は、はからずも数年後に世間を揺るがす一大ムーブメントのど真ん中に身を投じていくことになる。

くすぶっていた社会人1年目

無事都内の美容室に就職を果たした西岡は、アシスタント一年生として、日々業務の中で技術研修にはげんだ。都市型サロンにおいては、技術力のある者が効率的にカットを回すため完全な分業体制を敷いている。髪を切ることができるのは、一握りのスタイリストに限定されるのだ。

そのため入社から数年間はアシスタントとして、スタイリストの指示のもと、シャンプー、パーマ、カラーなど、実践をとおして一通りの技術を学んでいく。そこには勤続年数や技術力に応じて明確なヒエラルキーが存在し、互いに競争しながらアシスタントとして技術と地位の向上を目指す。アシスタントとしてトップに立った先には、今度はひとりでお客様をとってこられる存在になるべく、スタイリストとしてのヒエラルキーに組み込まれることになるのだ。

「はじめは全然仕事ができない奴でした。同級生のなかでも研修のカリキュラムを進めるのが一番遅い。仕事自体もそんなに楽しいと思わなかったです。そのうち美容師ブームが起こって、同じ東京で就職をした同級生からいろいろと派手な話を聞くわけですよ。1日に何十万売上があったとか、1時間に5人予約をとったとか。とにかくすごかったです。当時流行の中心だった青山・表参道のサロンなんかはめちゃくちゃだった。かたやこっちはそこからは少し外れたサロンのアシスタント見習いで、同じ東京なのにこの格差はなんだと。ただでさえ同期と比べても全然仕事ができない上に、このまま流行から外れたところでくすぶっていて良いのかと、焦りばかりが募っていきました。」

そんな折、ブランド美容室を牽引する存在だったHAIR DIMENSION(ヘア ディメンション)の看板スタイリストにして、既にカリスマとしての足場を固めつつあった宮村浩気が独立してサロンをひらくという話を聞きつける。西岡は現状を打開したいという焦りや、キラキラした世界を夢見る気持ちなど、様々に渦巻く感情と共にその新規サロンの採用面接を受けることを決意した。

「宮村さんがお店を出すよ、と当時HAIR DIMENSION(ヘア ディメンション)に勤めていた僕の妻(当時未婚)が教えてくれたんですよ。実は既に募集を締め切っていたんだけど、なんとかねじ込んでもらって。当時の人気はめちゃくちゃで、数十名の募集に2,000人くらい人が集まったんですよ。そしてなぜか有名コピーライターの方や、カリスマホストの方なんかが面接をしていて、一体なんなんだこの美容室はと、とんでもないところにきちゃったなと思いました。」

そして、なんと面接の結果、西岡はわずか27名のオープニングスタッフに選ばれる。

「なぜ面接を通ったのか全然わからないです。妻の紹介ということで下駄を履かせてもらっていた部分も全く無いわけでは無かったと思いますが、本当にオープニングスタッフに受かったしまったんですよ。そこでも『やっぱり俺には、なにかとてつもない才能があるに違いない』と思ってしまっていました。」

はじめての挫折、師との出会い

「初日にスタッフひとりひとりが入社にかけての思いを宣言する機会があって、そこで調子にのって偉そうなことをたくさん言いましたね。このサロンは宮村さんの名前に頼り過ぎているとか、カットよりもカラーの割合を増やして売り上げの数字を上げるべきだとか。今思えば何を言ってんだという感じですが(笑)。そんな偉そうなこと言っておいて、サロンワークは同期で一番できないレベルでダメでした。当然先輩たちにめちゃくちゃ叩かれて、下手すると入社初日から周り全員敵みたいな状況になっていました。」

しかし、一方で実力が伴わずともちょっぴりお調子者で弁が立つ、そんな西岡を宮村は面白がってくれたのだという。当時はカリスマ美容師ブームの真っ最中。サロンには頻繁にテレビ局の取材が入っていたが、そこでインタビューを受けたり、次世代を担う若手アシスタントの生活ぶりを報道するドキュメント番組に出演したりと、そういったメディア対応役に指名されることが多かったのだそうだ。

サロンワークの方は相変わらずパッとしなかったが、しばらくは忙しくも充実した日々を送っていた。ところがある時、西岡は階段から落ちて左腕を骨折してしまう。その影響で1ヶ月ほどサロンワークをこなせない日々を送ることになった。

「駆け出しの美容師にとって1,2ヶ月遅れを取るというのはめちゃくちゃ大きい。ただでさえ同期の中で一番できなかったのに、その頃は絶望的なまでに差が開いてしまった気がしていました。手を動かせないものだから、休んでいる間にいろいろ考えてしまって・・・。結局心が折れて、サロンを辞める決心をしました。」

そんな時に西岡を引き止めたのは、他ならぬ宮村の言葉だった。

「上司に話を通して、同僚にも退職することを告げた後で、最後に宮村さんに『お世話になりました』って挨拶に行ったら、何を根拠に言ったのか分かりませんが『お前は続けろ』って言われて。『いや、もう上司にも話を通しちゃったし、みんなに挨拶もしてきちゃいましたよ』って言ったら『いいから。今からみんなに謝ってこい』って言われて、マジすか!みたいになって(笑)。」

しかし、いずれにせよこのままではダメだと、強い危機感を感じた西岡は、本能に突き動かされるままにがむしゃらな努力を始める。

「とにかく、変わらないといけないという気持ちでした。何かを変えるには、意識のレベルだけでなく具体的に行動を変えていかないとダメ。そう思って、片っ端から自己啓発本を読み漁り、思いつく限りのことを試しました。朝7時に出勤して、誰もないサロンの中でひとり練習をして、閉店後も誰よりも遅くまで残って仕事をして、休みの日までわざわざ店を開けてもらって。実力が伴わなくても、まずは誰よりも努力しているということを周りに示そうと思って、復帰から3ヶ月間とにかく働きまくりました。」

約3ヶ月にわたるがむしゃらな努力の末、勝ち取った信用と地位。ほどなくして西岡は、一躍トップアシスタントに抜擢される。その後は順調にスタイリストの道を登りつめ、次第にアフロートの構成員として欠かせない存在となっていく。

「全ての女性を美しく」アフロートの目指す地平

震災を機に自らの人生感を改め、なんとなく美容師の道へ進むことになった。就職活動にも苦戦した。そこで、挫折を経験し、一度は辞める決意までした。しかし、そんな西岡を気に入った宮村の一言が繋ぎ止め、現在の西岡がある。

当時がむしゃらな努力によって掴んだ自信は大いなる糧となり、その後も西岡は努力を止めることはなかった。若き日に”調子に乗って口走った”という言葉に、実力が伴っていくに連れて、美容師という仕事にどんどんのめりこんでいった。

しかし、現在の美容業界にかつてほどの勢いは無い。都市型サロンの数は飽和し、多くのサロンが顧客の囲い込みに苦しんでいる。今、西岡が身を置く場所は、もしかしたら若き日に夢見たキラキラした世界とは、少し違ったものになっているのではないだろうか。

今、AFLOAT JAPAN代表となった西岡卓志はこの先にどのような青写真を思い描いているのだろうか。

「今のアフロートにもまだまだ足りない部分はあります。例えば、長期入院の方やガン患者さんの中にも綺麗になりたいという方はたくさんいます。『全ての女性を内面からも外面からも美しく』というのがアフロートの使命。まだまだ、到達していないフロンティアがあります。まだまだ上手くなりたいし、もっと広い世界を見たい。」

業界の成長が鈍化していることなど西岡には関係のないことだった。今もなお努力をやめない西岡から発せられるビジョンは魅力にあふれており、彼の眼に映る未来は昔と変わらずキラキラと輝き続けている。

そんな世界を描き、私たちに見せてくれる西岡の存在は「お調子者で弁の立つ奴」などではなく、「カリスマ」そのものだ。2000年代初頭にカリスマ美容師として君臨した宮村浩気は、そういった西岡の資質を見抜いていたのかもしれない。

西岡卓志からのメッセージ

そんな西岡に、自分らしく現代をサバイブする方法について聞いてみた。

「自分の意識が停滞していると、なかなか物事が前に進んで行かない。激流の中で旨い魚が育つように、自分の意識を前に進めるために、時にはあえて苛烈な環境に飛び込むことも大切だと思います。自分もスタイリストになりたての頃に、インターネットが爆発的に流行して、お客さまの流れも紙からウェブへ流れていくという激流を経験しました。そこで流れに逆らわずに乗っかったことで、どんどん新しい事ができるようになっていったという実感がありました。変わらなければ置いていかれる、逆に自分を変え続けることさえできれば、世の中を動かすことができるんだという感覚をそのときに掴んだような気がします。」

そのように考えるならば、変化の激しい現代社会はチャンスに溢れているとも言えるだろう。変化を厭わず、自身の在り方すらも変えながらその流れに飛び込んでいく。そのためには立ち止まっている時間は少ない方が良い。

「考え続けても、現状では解決できない問題というのは必ずある。そういうものは『考えないラベル』を貼ってストックしておくんです。考えても仕方ないことに対峙して、動きが止まることは避けなくてはいけません。ストックしておけば、それがふとしたときに、別の成功事例を当てはめることができたり、組み合わせたりすることで、突然視界がひらけて自動的に解が導き出されることがあるんですよ。」

これは「走りながら考える」というスタンスに近い。ベストを考え抜くよりも、ベターを多く実行しろという精神だ。

「例えば、都心型サロンでママさん美容師が仕事を続けるのは難しい。産休が半年間あるとその間にお客さんが逃げてしまうんですよね。解決しようと思ったらママさんひとりひとりの環境要因を並べて、それぞれに対して分析して仮説をたてる。もしそこで何らかのチャンスがあると思ったら、とりあえず『えいっ』とやってしまいます。よほど失敗しなければチャンスはいくらでも巡ってきますから。とりあえず走りながらでも、その結果をもとに仮説と検証、応用を繰り返すことで何らかの成果は得られるじゃないですか。それでもしダメだったらやめればいいし。とりあえず決断するときにはあまり考えずに、先ずは手をつけてみるということが大切だと思います。」

こういった仕事へのスタンスは職業を超えて通じるものだろう。最後に、西岡から今年新たに羽ばたいた新社会人にむけてエールを送ってもらった。

「知識や経験が乏しいうちに将来を見据えて正しい選択をすることなんて出来っこない。やってみてはじめてわかることのほうが遥かに多いので、とにかくいろいろなものに挑戦してみてほしいです。一方で、根拠はないけれど「これだ」と決めたことには、その時の感覚を大切にして、全力で取り組んで欲しい。自分が頑張ったら結果の出そうな領域がどこなのかというのは、自分しかわからないんですから。」

美容師・西岡卓志がトップランナーで有り続けられる背景には2つの理由がある。1つには、変化を受け入れ、人一倍新しい行動を起こしてみること。もう1つはこれだと決めた行動はがむしゃらにやりきること。

終始にこやかで、柔和な表情を浮かべながら話す西岡だが、その裏には確かな”強烈さ”があった。代表となった今でも新たな挑戦をし続ける西岡の描く「美の未来」から、今後も目が離せない。

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アフロートスタッフ、GENECTION(ジェネクション)の会員制コミュニケーションサロン。 美容業界に新しい価値を引き起こし(ジェ...