9/9()台風一過の炎天下の中、「黒田涼の江戸・東京を歩いて読み解くサロン」オーナーで、作家の黒田涼氏を案内人にお迎えし「築地ー豊洲散歩会」を行った。

築地市場移転問題によって最近では全国区で取り沙汰されるようになった築地と豊洲。渦中の場所は一体どのような場所なのだろうか。作家・黒田涼氏の目線から見たそれぞれの土地とは。

前編、後編、番外編でお送りする本シリーズ。今回は「前編」、東京・築地という町の歴史に深くダイブしていくとしよう。

11:00、都営大江戸線築地市場前駅にて黒田涼氏と落ち合った。平日の午前中だというのに、駅は主にアジア系の外国人観光客で溢れかえっている。築地市場の早朝見学や場内の食事処が人気なのだそうだ。

地下鉄の駅から地上に出ると、黒田涼氏のトークが軽やかにスタートする。

「まずはここを見て欲しい」。

築地市場の玄関口に設置されている「浴恩園跡」という説明看板だ。読んでみると、この地には元々屋敷に造られた「浴恩園」という池泉回遊式庭園があったという。大きな池が2つに築山まであり、おまけに汐も入るという、一万七千坪のそれはそれは立派な庭園だったよう だ。

そして明治維新以降、浴恩園は海軍、後の大日本帝国海軍の軍用地として使われるようになる。

築地市場は、近代日本海軍発祥の地でもあるという意外な事実を知った。他にも、築地市場の隣にある大きな建物、国立がんセンター中央病院は、海軍軍医学校跡地に建てられているという事実からも、このあたりは海軍に縁のある地だということが分かる。

また、ここでは築地市場の生い立ちも語られた。もともとの江戸・東京の台所は日本橋にあったこと。日本橋魚河岸が1923年の関東大震災で燃えて、海軍用地の一部を借りて仮設市場を作ったのことを発端に、この地に根を下ろしたということだ。

浴恩園の説明看板の隣には、もう一枚の看板がある。そこには、マグロが一匹描かれているのだが。

黒田涼氏「これね、知ってます? いわゆる原爆マグロの話。」

北澤「原爆マグロ!? なんですか?」

黒田涼氏「水爆実験で被爆した第五福竜丸はわかりますよね? あの船で当時水揚げされたマグロが、実はここに埋められてるんですよ。しかも、これ第五福竜丸だけのものではなく、その頃日本で水揚げされた約460トンもの被爆の疑いがある魚もかなりの量が一緒にここに埋められているです。」

北澤「そうなんですね・・・!

黒田涼氏「そうなんですよ。しかもそれが実はまだ見つかっていないし、どこに埋められているか見当もつかないらしいんですよね。あまり情報がないのです。」

 

第五福竜丸は米国による水爆実験で被爆したが、一般には原爆マグロと呼ばれている。市場は今まさに築地から豊洲に移転しようとしているが、もし仮に築地の地で立替えを行うことなっていたとしても、一波乱あるような状況なのだろう。

築地市場の正門から、市場内に入っていく。

もう時間も昼前なので、競りなどは行われておらず、場内は割と静かなものかと思いきや、一歩魚河岸横丁の飲食店街に踏み込むと、そこは平日にもかかわらず、昼食を目当てにした観光客でごった返していた。やはり外国人観光客が多い。

「ここはアレが美味しい。」「あそこのお店めちゃくちゃ並んでいて、美味しいんだけれども、実はこちらのほうが並ばずに入れる穴場的なお店なんですよー。」など、黒田涼氏は片っ端から飲食店レビューをしていく。

半端じゃない知識量と経験の片鱗を感じ、ワクワクしてくる。

私は、場内には初めて入った。築地に行ったのはだいたい土日や祝日で、休市日だったため、中には入ることが出来なかったのだ。継ぎ足しだらけの年季の入った建物群や魚の生臭さ、働く人々や往来する人々の息遣い、長年日本の食文化を支えてきた原風景を見た気がした。

東京の真ん中に、築地ノスタルジーがある。

一方で、築地市場の古めかしいごみごみした感じ、もし市場の建物が全壊するほどの大きな地震が直下で起こったりしたら、大惨事になるだろうとも思った。

広い場内市場をゆっくり東側に歩いて行くと、シンプルで小ぶりな鳥居が見えてきた。「水神社」と 記されているが、正確には魚河岸水神社、しかもここは水神社の本殿ではなく遥拝所(ようはいじょ、 拝む所)であると黒田涼氏。

本殿は現在神田明神の名で知られる千代田区の神田神社の敷地内にあるようだ。ここでは水神社の由緒が語られる。徳川家康が江戸を本拠地にする時に摂津国(今の大阪の一部と兵 庫県の一部)の佃村から連れてきた漁師たちが、大漁と海上安全を祈願して「弥都波能売神 (ミズハノメノカミ)」を祀ったことに端を発するという。

この神社の本殿は、元々は日本橋魚河岸にあった。日本橋魚河岸が震災で焼けたときに、市場は築地に、神社は神田神社に、そして遥拝所を築地に建立したという具合である。つまり、昔も今も、日本一の魚市場を守ってきた神なのだ。

遥拝所の中には「旗山(はたやま)」と書かれた石碑がある。これは近代日本海軍発祥の地を示す場所として知られている石碑だ。海軍用地がかつてここにあったことを示す貴重なもの。江戸時代の庭園「浴恩園」の築山の遺構に、海軍用地時代、海軍の旗を立てていたことから旗山と呼ばれたのだそうだ。

またどんどんと歩を進める黒田涼氏が向かった先は・・・女子トイレ!?

そこには、ひっそりと「浴恩園之圖(図の旧字体)」と書かれたブロンズレリーフがあった。写真では見づらいが、確かに瓢箪状の大きな池が2つと、築山が描かれている。「原爆マグロはきっとこの辺にあると思うよ()」と黒田氏。こんな奥まった所にあるレリーフ、余程詳しい人と一緒でないと まず目に留めることもないだろう。

築地場内市場飲食店棟の一部を間借りしている吉野家の一号店。全国津々浦々にある吉野家発祥の地だ。市場の豊洲移転と共に、吉野家も豊洲に移転する予定のようだ・・・などと、ちょっとした豆知識も紹介していただきながら更に歩く。

黒田涼氏の膨大な教養を吸収し、だんだんと築地という地の歴史が紐解かれていくのを実感しながら、場外へ。

一歩場外に出た所には、また神社がある。その名も「波除神社(なみよけじんじゃ)」。

江戸時代、徳川家康が開城した頃は日比谷まで汐が来ていた江戸の町も、どんどんと埋め立てが進み土地が切り開かれていった。徳川四代の頃には、ついに築地海面の埋め立てまで進んだが、堤防を作っては流され工事は難航を極めていた。そんな中で安全祈願を込めてお稲荷様を祀ったのが波除神社の由来だそうだ。

この神社の面白いところは、敷地内にいくつもある塚だ。「鮮魚塚」「鮟鱇塚」「海老塚」など、主に海にまつわる生き物を祀る塚が並んでいる。

比較的新しいもので「吉野家」という石碑もあった。市場移転に伴い吉野家一号店が豊洲に移転しても、相変わらずこの地を守り続けていく築地の波除神社に石碑を立てることで、発祥の地としての想いを残すのだろうか。

築地市場は、場内から一歩出ても引続き市場のような光景が続く。これが場外市場、いわゆる場外だ。海産物はもちろんのこと、乾物屋、食器屋、刃物屋からカトラリー屋まで、食にまつわる卸売り店が並ぶ。

「場外の面白いところは、お寺。」と黒田涼氏。この辺りはもともと築地本願寺系統の小さなお寺が約60も所狭しと並んでいた寺町なのだという。

圧倒的な量をもって並んでいる魚や漬け物、それを縫うようにして袖を擦りながら往来する人々。その中に突然寺が現れる。結構不思議だ。

圓正寺。敷地内には驚くことにちゃんと墓地まであった。

妙泉寺。ここは、ビル化している寺。ビル化しても寺は寺である。中にはちゃんとお堂があった。

場外を歩いていくと、真新しい建物が見えてきた。

築地魚河岸。市場が豊洲に移った後も、この地で商いを行っていきたいと考える業者約60店が軒を連ねる新しい施設のようだ。移転だろうがなんだろうが、相変わらず築地は食文化の第一線を走っていくんだという気概が感じられる。

オープンが楽しみだ。それにしても、ちょいと殺風景すぎやしないか。黒田涼氏も「もうちょい色気出してもいいような気がするけどね」とぼやく。 魚河岸という言葉は、元来は川の岸にとれたての魚を並べるようにして運用される市のことを表すが、この築地魚河岸が建っている場所はまさにかつての河岸であるそうだ。

写真では少しわかりにくいが、築地魚河岸の隣にあるこの柱、これは橋の遺構である。よく見ると、確かに橋らしい。

築地といえば、市場もさることながら、本願寺のイメージも強い。築地本願寺は元々、浅草の辺りに建立された京都の西本願寺の別院であった。江戸時代に「明暦の大火」で消失し、幕府から再建の地として指定され、与えられたのがなんと海上の地だったという。

江戸幕府鬼か。そのモチベーションを保つのに本願寺信仰の力も借りたのだろうか、民衆に文字通り地を築く埋め立て事業をさせた。この時埋め立て事業の音頭を取ったのは、水神社を紹介した時にも登場した、摂津出身の漁師たちである。ここに新たに本願寺築地別院が完成する。

尚、その別院は関東大震災で伽藍が消失してしまったため、1934年に現在の形に再建立して今の築地本願寺となる。「もう二度と焼けないように」という願いを込めて、インドの寺院風の石造りにしたと黒田涼氏は言う。だから、築地本願寺は、災害に対する感度が比較的高いということだ。

築地編の最後はこの祠で締めたい。黒田涼氏が「森孫右衛門供養塔だ」と紹介してくれたとても小さな祠だ。森孫右衛門とは、日本橋魚河岸の開祖であり、築地埋め立て事業の頭でもあった、摂津は佃村出身の漁師たちのいわばである。江戸の台所を支え、そして、現代の東京を中心とした日本の台所である「築地市場」のベースを作った森孫右衛門。とてつもなく偉大だと思う。また、黒田氏の話を聞く中で、徳川家康のまちづくり計画と意志が、現代まで息づいていることにも気づき、驚いたのだった。

前編の築地編はここまで。次回は、後編の前に、番外編として、【作家・黒田涼と語り歩く江戸東京 築地に由緒のある学校特集】をお送りしたい。

黒田涼の江戸・東京の歴史を歩いて読み解くサロン
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「黒田涼の江戸・東京の歴史を歩いて読み解くサロン」は、作家・江戸歩き案内人の黒田涼が主宰する会員制コミュニケーションサロン。 江戸...