社会学者・西田亮介による五冊目の単著『不寛容の本質』

西田亮介といえば、政治と情報・テクノロジーの話題を縦横無尽に行き来し、現代的な問題を鮮やかに解き明かす論客という印象が強い。しかし、この度出版された「不寛容の本質」は、「メディアと自民党」「ネット選挙解禁がもたらす日本社会の変容」といった過去の著作と比べると、かなり一般書の向きが強い一冊になっている。

本書では、「標準家族の変容」「世代別政党支持率」「少年犯罪の実態」といったテーマが取り上げられ、様々な事象に対する「世代間の認識ギャップ」が紐解かれていく。そして、西田はそれらの分析を通じて現代社会が抱える「不寛容の本質」を明らかにしようと試みる。

これだけを聞くと、今まで通りのアカデミックな日本社会論のように思われるかもしれないが、西田はこれらの分析を通じて、現代を生きる私たちに向けた強烈なメッセージを投げかけてくる。

「不寛容」という言葉は「息苦しさ」と言い換えてもいいだろう。すなわち、この本は、現代社会を生きる私たちならば誰もが持つ「どうしてこんなに息苦しいんだろう?」という問いに答える一冊となっているのだ。

時代の変化と世代間認識

いまから30年ほど前、批評家・浅田彰は、昭和の時代を貫通していた価値観が変化・崩壊する空気を感じ取り、次のような文章を残している。

パラノ・カルチャーの黄昏をアイロニカルに語ってみせるなんて百年ふるい。パラノ・カルチャーの崩壊のあとには荒涼たる砂漠しか残らないとひとは言う。だけど、その砂漠こそスキゾ・キッズにとって絶好のプレイグラウンドなのだ。それがいまあなたを待っている。

(浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』1984

私がこの言葉に出会ったのは、本稿が執筆されてから20年近く経過した頃だったが、それでも浅田が当時感じた「時代の変化」を自覚させるには十分な鮮度を持っていた。

詳細は『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』に譲るが、簡単に補足すると、「パラノ」はパラノイア(確執型)、「スキゾ」はスキゾフレニー(分裂型)の略で、誤解を恐れずに言うならば、それぞれを「働き者」と「遊び人」といった言葉に置き換えて理解して差し支えないだろう。

追いつけ追い越せという価値観の下で高度成長期を支えた真面目な働き者の時代が終わり、一瞬一瞬を大切にする、幾分か享楽的な価値観の下で生きる遊び人の時代がやってきたと言うのだ。また、浅田は別の箇所で、これらを「ためこみ志向からギャンブル志向へ」と言った表現に言い換えたりもしている。

当時十代で社会を見渡すような視座を持っていなかった私は、自分がこのまま大人になっていくことに悲観的だった。バブル崩壊、大企業のリストラ、耳にタコができるほど聞く「不景気」という言葉。大人たちの言動から感じるのは、いつだって「昭和的なものが崩壊し、社会がマイナスに向かっている」というネガティヴなものだった。

その認識を変えたのが浅田彰だった。「パラノ・カルチャーの崩壊のあとには荒涼たる砂漠しか残らない/その砂漠こそスキゾ・キッズにとって絶好のプレイグラウンド」というフレーズに心が踊った。浅田は、私が生きる現代が「荒涼たる砂漠」なのだとしたら、その砂漠こそが私にとって絶好のプレイグラウンドなのであると言うのだ―! 副題「スキゾ・キッズの冒険」は、まさしくこれから自分が歩んでいく人生のタイトルだとさえ感じた。

しかし、それから更に10年が経過し、社会に出て働くようになったいま、私は自分の冒険がそう楽観的に進むものではないこともまた、思い知らされるようになった。

「パラノ・カルチャー」(=昭和的な価値観や制度)はそうカンタンに「崩壊」しなかったのだ。正確にいえば、既に崩壊しているにも関わらず、崩壊しているという事実が周知されていない。あるいは周知されていても、人々は崩壊の事実を直視することを無意識に拒否しているように思える。

「昭和的なもの」に対する世代間認識のギャップ

『不寛容の本質』では、「昭和的なもの」が崩壊しているという事実をデータや資料とともに論証し客観的に明らかにした上で、そこから目をそむけることをやめようと説かれていく。

例えば、年金システムの設計などに用いられている「標準世帯」の概念。本書によれば、厚生労働省は「標準的なモデル世帯として平均的な男子賃金で40年間厚生年金に加入した夫と、40年間専業主婦の夫婦を想定している」としているが、いまや共働きの方が主流であり、「標準世帯の非標準化」が進んでいるという。

また、誰もが薄々気づいているように、街中で子どもを連れた家族を見る機会が少なくなっている。本書によれば、30年前「児童のいる世帯」は全体の46%存在していたが、現在では23%に減少している。西田亮介はこの数字を以って「いまの世の中で子どもを育てるということはどういうことかを経験的に理解できる人たちが減少している」と言う。

あるいは、政治について。学生運動に関わった世代にとっての「若者の政治観といえば、反自民、反与党」という感覚も、もはや「昭和の面影」である。本書によれば、最近の若年世代の多くは自民党を支持する傾向にある。20167月の参院選の出口調査の結果(朝日新聞)では、1819歳の40%が自民党に投票。20代では43%と、世代別で見ても最も高い数字となっている(これに対して西田亮介は、野党に力があったのは現在の若者が幼かった頃であり、与党である自民党と競合する存在としての野党にリアリティが持てないのではないかという仮説を立てている)

本書では、様々な「昭和的なもの」の崩壊が、一つの事実として示されていく。それは、若年世代にとっては当たり前に感じていることかもしれないが、年長世代にとって「昭和的なもの」はノスタルジーとともに当然視される。

そういった認識のギャップが存在するがゆえに、悪意なくなされた発言であっても、異なる世代からするとまったくもって受け入れられないものになっていることがある。こうした認識のギャップ、対立構造に現代社会が抱える「不寛容の本質」があるというのが本書の趣旨だ。

現実を直視しよう

『不寛容の本質』は、西田亮介の「現実を直視しよう」というスタンスが強く表れた一冊だ。

実はこの本が出版される二ヶ月ほど前、オンラインサロンの忘年会で、私は彼の口から同じフレーズを耳にしたことがある。「現実は直視したいじゃないですか」と、リラックスした席でぽんと放たれた一言が、私にはとても印象的だった。

それから二ヶ月後。私は本書を読み、社会学者・西田亮介の「現実を直視したい」という言葉が、特定の価値観に規定されることのなくなった自由な社会で、そこに存在する有象無象の問題と立ち向かう者が持つ“闘志”であることに気がついた。

最後に、その闘志が記された一節を紹介し、本稿を締めることとしよう。

本書のような議論を自己責任と競争を重視する新自由主義批判につなげることは容易いが、すでに我々は十分に新自由主義的な世界を生きている。今更紋切り型の新自由主義批判を展開してみたところで虚しさが残るのみである。

変化は不可避なのだ。前提条件が変化しているのに、それ自体を批判し続けていれば、取り残されるだけだ。

筆者の認識では、変化を直視しないことで、この社会が失ってきたものは少なくないように思えるからだ。 確かに「失地回復」の戦いが求められているが、その前提としてまずは我々の認識の足もとを改めて見つめ直すことから始めてみたい。

西田亮介が提示する現代社会を読み解くための方法論は、私たちに教養をもたらすだけに留まらない。現実を直視する強さと、現実を生き抜く闘志をもたらしてくれる。


【イベント情報】西田亮介の「いま、この人と考える」第1回「現代メディアの中立と偏向」が開催 ゲスト:石橋学

社会学者・西田亮介をホストに、「偏っていますが、何か」宣言で話題となった神奈川新聞「時代の正体」取材班より石橋学記者をゲストに迎え、メディアによる「中立」「偏向」とは何か、といった問いを中心に、一億総”発信者”時代におけるマスメディアの責任と役割について考えていきます。

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西田亮介の新書、文庫、雑誌で始めるリベラルアーツゼミ@Synapse
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